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    「だいいち、あすこの小倉組の親方といふのがね、うちの店へもたまに買物に来るんだが、鬼倉といふ綽名がある位でね、見たところ痩せつぽちのさう強さうもない奴なんだけどね、すごいんださうだ。――こないだも郵便局で見た人があるんださうだが、配下の者が何かしつこく不服を云つたら、いきなりかう、二本の指でね――」

    練吉はそこで房一について廻つたばかりでなく、角屋までもくつついて来た。そして、同じやうについて来かけた徳次を見ると、

    と、道平は明かに盛子に気兼ねをしているらしかつた。

    母家の方には父親の正文がいるのだらうが、ひる寝でもしているのか物音がなかつた。練吉は井戸端へ出て身体を拭くと、居間になつている診察所の二階へ上つて来た。その途中で、看護婦に自転車の鞄を外して、中にある処方の薬をこしらへて置けと云ひつけた。そして、さつき配達されたばかりの前日の新聞をつかむと、腹ばひになつて読みはじめた。

    と、房一はひとり言を云つた。

    「それあ、あつさりしていゝですな。こつちでは山車が生憎あいにくこはれて、満足なのは一つしかないんでね。あんまり淋しいからと云ふんで、こんな思ひつきをやらかしたらしいですがね」

    と、練吉は房一の方をふりむいた。

    答へながら、房一は少からず面喰つていた。声をかけられるその瞬間まで、彼は酒造家の相沢を何となくでつぷり肥つて、木綿縞の袷あはせの袖口から肉づきのいゝ手首を喰はみ出させた、紺の前掛でもした男を想像していたのだつた。それが乗馬ズボンをはいて現れようとは――。

    「いや」と、喜作は相変らずきつぱりと、煩うるさがりもせず答へた。

    いくらか浮うはつ調子に口の軽くなつた小谷にひきかへ、今夜の練吉は何となく元気がなかつた。細かいながらに絣かすりの目のはつきりした大島の上下揃ひを稍ぞんざいに着こみ、吃り気味に話をする彼には、だらりとした様子と同時に、どこか家風の結果といふやうな一脈の潔癖さが混交していた。

    あのぴかぴか鋭い光を放つメスを危険もなく取扱ひ、聴診器をあてがひ、胸だの腹だのを指でたゝき、雲をつかむやうな厄介な重苦しい病気といふものを探りあて、ピンセットでつまみ出し、ふしぎな光沢のある粉末を与へ、すると激しい痛苦がたちまち遠のき、一日か二日でぴんぴんしてしまふ、その玄妙と神秘にみちた医者といふものの働き、――徳次はかつてそんなことを考へたことはなかつた。今までの彼にとつては、医者は呼べば来てくれる者、病気を癒してくれる者、単にそれだけだつた。それ以上のことが何で必要があつたらう。ところが今や、その縁のない漠然としていた「お医者」が突然彼の身近かに姿を現したのだ。それは何となく不思議なことだつた。同時に親しいものだつた。これまで彼が立入ることもできないと思つていたもの、理解しがたいものとしていた物が、今目の前に手で触ることもでき、その縁に手をかけて中をのぞいてみることもできさうだつた。この身びいきからして突然ひき起された克明な興味を以て、彼は房一を、その中に在る医者といふものを熱心に眺めた。

    大石練吉は日盛りの往診からもどつて来ると、暑さのために不機嫌さうな顔になりながら、自転車を手荒らに立てかけ、とりつけた鞄もそのまゝにして、のつそりと診察所から上つた。

    やつとこさ、さう云つた。まだ本当とは思へない、だが他には考へやうもない、そのたつた一つのことが、彼が医者としてあんなによく知り抜いている生理上の一現象が、又当然いつかは起りうると承知している筈のことが、今や目の前へぶら下げられた一包みの果物か何かのやうに、突然そこに持ち出され、いやでも彼の全注意を惹いているのであつた。いや、それどころではない、今そこに立つている盛子、白い割烹着に包まれ、すらりとした伸びやかな身体までが、その微笑している切れの長い眼つき、悪戯いたづらつぽさと羞はにかみとのまざり合つている様子だの、そのすべてが、何かしら微妙な、手で触れにくい、不思議な物として見えたのだつた。

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