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    だが、さう云つてすゝめる当の小谷には、その細面の小柄な様子には、何でも似合ふやうなところがあつたので、この紙衣裳さへ似合ふにちがひなかつた。小谷は何とかして、この場で房一に着させよう、その効果を楽しまうと考へているらしかつたが、房一が相手にならないので、話を他に持つてゆき、いきなりこんなことを云ひ出した。

    その場に居合せた道平を見かけても、小谷はあんまり紙衣裳に気をとられていたので、それが大病の後でやつと起き出した珍しい姿だといふことに心づかなかつた。が、大分たつて思ひ出した小谷は、

    広い家の中では盛子一人だつた。もうとつくに羽織袴も居間に出して置いたし、履物も足袋も揃へた。帰りさへすればすぐにも出かけられるのだ。だが、足音も聞えはしない。盛子はさつきから何度も玄関に出てみたり、それから裏口から外の小路に出て河原の方をすかし見たりした。

    房一は、犬を制した。ところが感ちがひしたジョンは堤防の方へ大急ぎで走つて行つたが、房一と徳次の二人がそのまゝ河原にしやがみこんだのを見ると、又一目散に戻つて来、まはりの草の中を嗅いで見、二人を眺め、一向に動きさうもないと知ると、石ころの上に腹を着けて長い舌を出した。が、急に尻尾を振つた。二人が彼の方を向いたからである。

    だから、房一にしてみればわざわざ小面倒なところへ乗りこんで行つたやうなものである。それだけに房一は事前に大体の目算をつけていた。彼の計算によれば、彼の生家のある河場一帯はむろん彼の地盤に入るとして、河原町の川向ふは今まで何かにつけて町側に押されていたから自然その半ばは自分に着くと思はれた。その他の所、町場と近在については、この地域での大石医院の勢力は抜くべからざるものだし、又若しこれを強ひて侵さうとしたらそれはかへつて自分の身の破滅を来すやうなものだとは彼にも一目瞭然であつた。ただ近在だけは時日が経つうちには彼の腕次第で少なからぬ患者をひきつけることができさうに思はれた。だが、急せいてはいけない。それに、彼が社会的にも医師としても大石医院の後進であることは紛れもないことだつた。よし、こつちからうんと頭を下げて行つてやらう、仕事はそれからだ、と房一は強く胸の中で呟つぶやいた。

    「もう、だいぶようなつたですわ」

    房一はすつかり夢中になつていた。

    昨年の冬あたりから、何を思つたのか彼は写真に残つている先代のやうに髯をのばしはじめた。最初のうちはもじやもじやしたごま塩の汚たならしい色で、皆から可笑をかしがられてばかりいたが、のびるにしたがつて白味を加へ、似合つて来、そのあることがあたり前にさへなつていた。殊に病中には、彼がもどかしがつて口をあくあくさせる度に、髯のはしがびりびりふるへ、はね返り、遠くにいても彼が何か云ひたがつていることが判つたくらいで、したがつて彼の身にもついていれば、はたの者の目にもすつかり馴染まれていたのである。

    「おーい。渡つてもいゝかね」

    「よく来てくれましたな。けふはゆつくりしてもかまはんのでせう。あんたは碁を打ちますか。――さうですか、御存知ないですか。それはちよつと。まア、しかし、こんなものは覚えん方がいゝかもしれませんなあ」

    房一はその一見粗雑な性情にかゝはらず、現実の直視力のごときものを持つていた。彼を導いてその運命をつくらせたのもその力だつたが、今自分が他の誰のでもない彼自身の足の上にしつかりと立つている自信を持つたときに、ふりかへつて自分がそこから出て来た場所、老父の道平やその身の上に降りて来た運命のまゝに依然として百姓仕事に甘んじている兄弟達のことを考へた。単に好人物といふより他はないその手の皺の間に土の浸みこんだ日焼けのした兄弟達は、誰から云ひ聞かされたわけでもないのに自分に与へられた運命の限度を知つて日々を落ちついて暮しているあの楽天的な人達であつた。彼等は今房一の成功を恐らく当人以上に悦んでいた。彼等にとつては房一はその唯一の代表者であつた。誰でも世間的な野心は持つているものである。そのないやうに見える人達にあつても、それは眠らされて見えがたくなつているか又は何らかの形に変形されているものである。そして、この世間的な野心といふものも、実は生の根源力にほかならない。彼等のあきらめていたもの、若しくは自然にあきらめたと同じ結果になつたこの野心を房一の中に見た。それは房一のものでもあるが、同時に彼等のものだつた。今彼等は彼等自身の全部の希望をこめて、懸命に控目に房一を支持しようとしていた。その単純な幸福さうな輝きが房一の心を捕へた。

    「やあ、君か」

    印袢纏の背の高い男がその時、半シャツの男に向つて目くばせをした。

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