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房一には間もなくそれが雑貨店の主人である庄谷だと判つた。だが、庄谷の方では房一が二三間の所に近づいてもまだぢろぢろ眺めていた。
一方には盛子の妊娠があつた。それは気を痛めるやうなものではなかつたが、やはり房一の存在の奥深く喰ひこみ、そこに微妙な、ふしぎな目に見えない点を植ゑつけた。道平の病気は彼を動揺させた。この二つは房一にとつては切つても切れないものだつた。そして、そこには或る一つの脈絡と対比が、生れるものと去つてゆくものとが、今や動かしがたい明瞭な兆候となつて現れていた。それは今までたゞ一方的に無我夢中だつた房一をひよいと立ちどまらせ、彼をもあらゆるものをも抱きこんでいる大きな流れが、突然きらりとそのありのまゝの起伏、その横顔といつたものを見せたやうに思はれた。いや、見せただけではない、知らぬまに、予期せぬうちに、彼はまさしくその茫漠とした果しないものの中に身体ごと足を踏みこんでいるのを、彼のまだ考へたことのないあの人生といふものが疑ひもなく彼の上にはじまつているのを感じた。
入浴は快適だったが、あがる時が苦痛であった。越して来たのが冬だから、湯から上ると、ガタガタふるえる。とりわけ寒い日は、全身をふく余裕がなく、夢中で着物をひッかぶっていたりした。
「すまんでしたな、長話をして」
「さうです、さうです。さつきも少し遠乗りをやりましてね。帰つて来たばかりなんです。どうしてもこの辺は馬ででもないと、用達しが不便でしてね。町へもこれで出かけます」
「挨拶みたやうなことはもうしたかの」
二
「いや、あの晩の、ほんの三二日前です」
と、道平は云はれた通りに腰を下さうとして、椅子の円々とふくらんだ真新しい天鵞絨びろうどの輝きに目をとめると、しばらくまじまじと眺めていたが、もう腰をかけるのは止めてしまつた。やはりゆつくりした様子で立つている。
「先生お帰りになりましたかね」
ゆつくりと時間をかけて、楽しみ楽しみ喰べた。それは喰物のおいしさよりも、かうやつて小娘のやうな真似をするのがおいしかつたのだつた。
こゝの当主はもう七十近い老人だが、まだ郡制のあつた先年まで郡の医師会長だつた人で、この地方での一二と云はれる有力者でもあつた。それに相当な地主だ。その政治上の勢力や小作人関係などからきている彼の家と患者との関係は一朝一夕になつたものではない。今では老医師の正文は半ば隠居役で、息子の練吉といふ若医師が診察の方はひきうけているのだが、中には「老先生の患者」といふ者もある位だ。
後で馬がいないと云ふので騒ぎだつた。
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