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    どういふ加減からか、それを云ふ時、相沢はぐつと又相手の顔をのぞきこんだ。それは何となくもつたい振つた、重々しい様子だつた。

    「相沢さんも見えないな」

    やつとこさ、さう云つた。まだ本当とは思へない、だが他には考へやうもない、そのたつた一つのことが、彼が医者としてあんなによく知り抜いている生理上の一現象が、又当然いつかは起りうると承知している筈のことが、今や目の前へぶら下げられた一包みの果物か何かのやうに、突然そこに持ち出され、いやでも彼の全注意を惹いているのであつた。いや、それどころではない、今そこに立つている盛子、白い割烹着に包まれ、すらりとした伸びやかな身体までが、その微笑している切れの長い眼つき、悪戯いたづらつぽさと羞はにかみとのまざり合つている様子だの、そのすべてが、何かしら微妙な、手で触れにくい、不思議な物として見えたのだつた。

    読経どきやうはまだ始まらなかつた。

    今、房一の顔に現れているのはさういふ怒気だつた。ただ、それは盛子に向けられているのでなしに、房一の内部に立ちはだかり、自ら押へつけしている、それから来る圧迫感だつた。――

    それらのすべてを通じて何よりも房一の胸を強く打つたものはあたりに行きわたつている静寂とそれを支へている平和な気分であつた。それは見る人の心に微妙な落着きを与へそこに住みたいといふ気を起させ、更に、さう思ふだけですぐに自分の暮しの輪郭や断片などを魅力にみちたものとして想像させる、さういふ或る物だつた。現に、あまり空想家でもない房一の心に一瞬浮んだのはその気持だつた。

    その苦痛を天城先生に訴えたら、洗眼器をかして下さった。入浴しながら、これを用いて、冷水で目を洗う。これを三分ぐらいやって、目をとじて、三十分、四十分、湯につかって、茫々去来するままにまかせておくのである。眼の疲れは急速に去った。目に水をそそいでから、ヌル湯にながく、ながく、ひたるということは、目の疲れとは別に、頭の疲れを払うためにもキキメがあるようだ。また入浴前に歯をみがいておくことも、いくらか入浴の頭に及ぼす効果を助けるようだ。

    「うむ、うむ」

    しかし、いづれにしても、房一がかういふ率直な頼み方に出たことは練吉の気をよくした。彼は熱心に診た。この結果が房一の診断と大差なかつたにもせよ、たゞそれだけでほつとした面持になつた房一を見ると、練吉は何かしらいゝことをしたやうな気にもなつた。軽蔑とまではいかないが、たとへ心ひそかに房一を医者として自分と同列に考へなかつたとは云へ、そして、肉親を診る時に心が乱れて困るといふ房一の打明けををかしがりはしていたものの、この房一の隠すところのない当惑の様子、その正直さは、知らず知らず練吉を同化させるやうなものを持つていた。

    「水はこんなにきれいでたつぷりしているだらう。鯉だつて鮒だつて、鯰なまずも、ハヤも、鰻うなぎ、アカハラ、それに鮎は名物だらう。こんなに沢山魚のいる河が他にありますかい」

    富田は庄谷の方に向きなほつた。

    船体を洗ひ終つて、これから雑具にかゝらうとしたときだつた。彼はふと対岸に目をやつた。物音がしたわけでもなければ、気配を感じたのでもない。しかるに、そこの路の曲り角には、まるで符合したやうにその時きらきら光る真新しい自転車に乗つた男が現れたところだつた。

    「さやうで御座りますか。お忙しいところを御苦労さまで」

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