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    「や、さうですか。僕も今そこから帰るところです」

    今度は正文の方で答へなかつた。そして急に苦がい顔になつて、ぢろりと薬戸棚を見まはしただけで母屋おもやの方へ帰つて行つた。

    その短刀は、房一が入つた時すぐと目を射たものだつた。そして、今の今まで、彼は絶えずその不気味な輝きをすぐ傍にしながら、わざと目に入らない風を装つていたのである。とは云へ、彼も亦こゝへとびこんだ瞬間から、一種の無我夢中だつたことは間違ひない。その刃が静かに鞘の中に滑りこむのを目にした時房一ははじめて背筋がひやりとするのを覚えた。

    「大石練吉です」

    「はあ、どうも」

    思はず時間がたつてしまつた。房一は腰を上げた。前脚の上に顎をのせて長々と寝そべつていた犬は急に起き上つて身ぶるひした。徳次は、房一の往診の時間を大分遅らせたのにやつと気づいた。

    家督を継いだ文太郎が間もなく酒造業をやめた時に、直造は少からず不満だつた。文太郎は種々の理由から説得した。が、最大の理由は法学士だつた文太郎が帳付よりも地方政治に興味を持つていたことにあるらしい。果して、文太郎の濫費のために一時は不動産の大半が銀行担保に入つたことがある。直造は不機嫌だつた。しかし、欧洲大戦が始つて以来の好景気が鍵屋の財政を持ち直しはじめていた。

    小谷は仰山ぎやうさんな表情になつた。

    心持照れ臭さげにしながらも、盛子は快活などこか家庭的な確しつかりさといつた風なものを現して、この一日造りの漁師達を眺めた。

    茶器を持つてこちらへ近づきながら、盛子自身も何となく眩しいやうな目つきをしていた。それは彼女に溢れている若さだつた。その声で想像させたやうな細身ではなく、むしろ中肉だつたが、背が高いので一種の優しみが現れていた。

    徳次はいつのまにか腕組みをしていた。あのあてずつぽうな、そゝつかしい、力りきんだ様子が現れていた。

    盛子は、ほんの僅かではあつたが、速い、鋭い身ぶるひをした。そして、あの伏目がちになつた眼を上げ、ぢつと房一をたじろがせるほどつくづくと見入つた。そこには、以前そのまゝの張りのある眼をした、だが、弱い深い複雑な色が動いていた。妊娠以来急に人が変つたやうに見える、何となく房一の心を見透すやうな、捕へがたい、鋭い盛子がのぞいていた。多分、それは房一の思ひちがひだつたかもしれない。だが、彼はそこに、やさしい、けれども何となく苦手なものを感じていた。

    「へゝえ、わしらは用意がえゝですからね、あんな蜜柑箱みたいなもんはすぐこはれるにきまつてるから、家を出るときこゝにつけて来たんでさあ」

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