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    「ねえ、高間さん。まあ、こつちへお寄んなさい」

    だが、房一よりも堂本の方がもつと慌てていた。彼はいきなりそこに痩せた身体をしやちこ張らせてかしこまると、

    そして、食卓に突き立てたまゝになつている短刀を、火箸か何かつかむやうな、無造作な素速い手つきで抜きとると、鞘におさめて腹帯の内側へ入れながら、

    見る見る癇癪かんしやくを起しさうになつた練吉は、その時ふと或ることを思ひ出して黙つた。

    「相沢の先代が生きている間は知吉さんも手が出なかつたのさ。目の上の瘤がなくなつたから、いよいよ本性を出したといふところだらう」

    「ですが、何とも手のつけやうがない」

    「そうしてそのお松と言う女は?」

    房一は向ふへ行きかけた。徳次はさつきから云はうとしてまだ云ひ出せずにいることがあつた。それに何と呼びかけていゝかも判らない。房一の姿は段々遠のく。突然、徳次は散々思ひ屈した後に出るあの大胆さで大声に叫んだ。

    「さうです。――どうかなさつたかね」

    「さうだ、鍵屋の法事へ行くんでね。さつきは、君にさう云ふのを忘れていたが――まあ、上りたまへ」

    だが、その幾日かも過ぎると、又あの、恐るべき変化を蔵しながら一見何一つ変つたこともないと感じさせる、単調な何気ない日々がつゞいた。何かしらはつきりし、又何かしらとりとめもなく、空は冷い輝きを増し、山々の稜線はかつきりとし、葉の落ちつくした雑木山はずつと遠くのものまでが殆ど信じられないくらいの細かい枝を無数に目に見させ、ブラッシの毛並みのやうな渋い赤褐色をどこまでもどこまでも拡げていた。

    今さつきまで誰もいなかつた通りの、ずつと先きの方から黒い人影が歩いて来るのである。袴をはいて小さな風呂敷包か何かを抱へている、そのやはり背高な、直立したまま急ぎ足に歩く恰好はまぎれもない町役場の書記の今泉だつた。

    さうだ、あれは見覚えがある。練吉は幼ちいさい時頭の大きな首の細い子供であつたが、房一は彼を磧かはらのまん中で追ひまはしたこともあるやうな気がする。それは広い磧で、あたりの静まつた、瀬の音だけが無暗みときはだつて聞える日中で、水流のきらめく縞や、日に温められた磧石からむつと立つて来る温気や、遠くの方の子供達の叫び声や、ふりまはしている青い竹竿や、さあつと時々中空から下りて来るうす冷い微風や、彼等が走り、叫び、つまづき、又一所にかたまつて遠くの山襞やまひだにうすく匍ひ上る青い一条の煙(それは炭焼の煙だつた)に驚きの眼を見はつた、あの空白なすつきりした瞬間、――からみ合ひ、押へつけ、お互ひの腕と腕との筋肉が揉み合つて、下敷の子の涙の出さうになつた懸命な眼や、多勢に追ひつめられて溝をとび越さうとして思はず泥の中に足をつゝこんだりしたこと、敵方のはやし立てる明るい声や逃げて行く弱い子の背中にぴよんぴよん動く小さな帯の結び目や若葉のきらめき、河魚の手ざはりと匂ひ――それらの記憶が一瞬のうちに現在の房一の胸に生き生きとよみがへつて来た。それは遠くてつかまへられさうもなく、又すぐ傍にあるやうにも感じられた。

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