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房一の老父、道平が二三日前に倒れたのだつた。そして、今、練吉に対診を求めて来たのである。
瞬間、房一は緊張した。道平が急変したのかと思つた。さうではないらしい。急患だらうか。それだと、こんな風ではなく、もつと低くおろおろした風に云ふ筈だ。彼は手をやめて、耳をすませた。
彼の妻の茂子は昨日実家へ帰つたばかりで、この家にはいないのである。
「お松は「い」の字と言う酒屋に嫁よめに行ったです。」
かういふ彼であつたが、河原町の人々は彼に対して一種の親味と同時に、河場者、他所者といふ一瞥を決して忘れなかつた。彼の席順はやはり低かつた。それでも彼は一度も不満の色を浮べなかつた。
「まあ、のみなさい」
とてもそんなことは!といふ風に房一は答へた。
直造は、然し、突嗟とつさのうちに考へをまとめることができなかつた。彼はあの慇懃な荘重さをとりもどしていた。が、何となく悄しをれた所のある物腰で、房一の挨拶を受けたのだつた。
「あれは本当ですかね、相沢さんが訴訟を起したと云ふのは?」
「何分ごらんの通りの未熟者でして――」
さう声に出してみた。そして犬の方をふりかへつた。犬は彼の方を信頼にみちた眼で見上げ、しなやかな尾を振つた。
暑さはもうなかつたが、生温いぬくもりが時々顔を打つた。房一は空腹を覚えた。それにぼんやりとした疲労があつた。道平が卒倒してからは、まだ一週間になるかならぬかであつた。だのに、もう半年も前から、こんな気忙きぜはしい状態がつゞいているやうに思はれた。
間もなく房一が帰つて来たらしい。
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