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    「お松は「い」の字と言う酒屋に嫁よめに行ったです。」

    生返事をしてそのまゝ登つて行く。

    気がつくと、房一はさつきよりもぽつと明い、青味を帯びた中を走つていた。いつのまにか月が出たのだ。鉄橋を渡つて、町の中に入つた。月明りはこの人気の少い町一杯に輝いて、うるんで、物の形を一様な柔い調子の中でくつきりさせていた。

    「あら!いらつしやいませ。ようこそ。――ほんとうに、よくまあ!」

    「先づそのうちには、町内の様子もいろいろお解りになることでせう。これでなかなか面倒なこともありましてな」

    「すまんでしたな、長話をして」

    ――「それでは、わしの方からお礼を云はなきあならんのです。どうぞ、よろしく願ひますわ」

    口を利くのは半シャツの男だけだつた。恐らく四十前後だらうが、前額のひどく禿げ上つた、痩せ身の、鼻下にちよつぴりした髭をつけている、がそれらを貫いている表情は何か殺気のある精悍さといつたものだつた。口をきく度に、彼の眼は喰ひこむやうに相手を一瞥した。

    「ふん。何でもありやせんよ。大方、腹でも痛かつたんだらう」

    「ふうん、潰れるだらうな」

    「大きいとも、こんなのを見たのは久し振りだ」

    これはちっとも可笑おかしくない!彼ら二人は実にいい夫婦なのである。

    徳次は房一から聞かれるまゝに子供の数を答へたり、それから又思ひついて水神淵へ出る近路のことを念入りに教へたりした。無我夢中に近い気持だつた。だが、その間にも彼はあの眩しげな目つきで、時々房一を眺めた。するうち彼には、自分にとつてはたゞ漠然と雲をつかむやうにしか思へない「年月」が房一の中にはつきり現れているのを感じた。それは医師高間房一だつた。この何かしら驚くべき変化の中には、徳次すら一役買つているやうに思はれた。

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