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    その時やつと、男は少しうなづいた。そして背中に負はれて出て行つた。

    と、房一は急いで頼んだ。加藤巡査は一瞬、不安な面持をした。が、房一の態度が決然としていたのと、急策としてはそれより他にないことも明かだつたから、直ちに承諾を与へた。

    二人は間近かで眩まぶしげに眺め合つた。そのまますれちがつて、二三間行きすぎた頃、房一が見送り気味にふりかへるのと、相手が車の上から首をねぢ向けるのと同時だつた。そのはずみに男はひよいと地上に降り立つた。

    土手に立つている男は房一には見覚えのない男だつた。神原喜作だと聞いてもすぐには誰だか判らなかつたが、やがて、それが彼の借家している鍵屋の分家の当主で、ふだんはどこかの農学校の教師をしていてめつたに帰つたことのないといふ、あの喜作だと思ひあたつた。それにしても、どうしてこんな所へひよつこり姿を現したものだらうか、冬休ででも帰つて来たのだらうか。――

    「なに、ろくでもない用事で帰つたもんですから、どこへも失礼していたんです」

    房一は鬼倉に向つて叮重ていちように云つた。

    広い家の中では盛子一人だつた。もうとつくに羽織袴も居間に出して置いたし、履物も足袋も揃へた。帰りさへすればすぐにも出かけられるのだ。だが、足音も聞えはしない。盛子はさつきから何度も玄関に出てみたり、それから裏口から外の小路に出て河原の方をすかし見たりした。

    「さやうさ。当今では大分世智辛せちがらくなりましてな。薬価の代りに畑の物を貰つてすませる位のことはさう珍しくはありませんよ」

    「ふむ」

    「あんたは鮒をたべなさるかね」

    「お粗末ではござりまするが、どうぞごゆるりと」

    「何だらう?」

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