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「ふむ、毛嫌ひされて、孫ができてからやつとこさ婿養子になつたんだからね。――しかし、今ぢや正当な相続人だから、喜作さんに分けた分も自分の物だといふ理窟なんだね」
さう声に出してみた。そして犬の方をふりかへつた。犬は彼の方を信頼にみちた眼で見上げ、しなやかな尾を振つた。
そして、これと全く同じ活気が、あの燃え残りの蝋燭の発する佗びしい、だが、ゆらめくやうな活気が今夜の法事で主人役をつとめている神原直造にもあつた。
「往診ですか」
「さうです、一寸」
「どうも遅くなりまして――」
「まあ、生れ故郷ですから」
勿論、その時代には温泉宿にかぎらず、すべての宿屋が大抵古風なお粗末なもので、今日の下宿屋と大差なきものが多かったのであるが、その土地一流の温泉宿として世間にその名を知られている家でも、次の間つきの座敷を持っているのは極めて少い。そんな座敷があったとしても、それは僅わずかに二間か三間で、特別の客を入れる用心に過ぎず、普通はみな八畳か六畳か四畳半の一室で、甚だしきは三畳などという狭い部屋もある。
房一は鬼倉に向つて叮重ていちように云つた。
顎から後頭部にかけてと背部と二所を大きく繃帯でぐるぐる巻きにされた男は、やがて待合室へつれて行かれ、ごろりと転がされた。はじめからしまひまで一言も口を利かなかつた。
房一はその一見粗雑な性情にかゝはらず、現実の直視力のごときものを持つていた。彼を導いてその運命をつくらせたのもその力だつたが、今自分が他の誰のでもない彼自身の足の上にしつかりと立つている自信を持つたときに、ふりかへつて自分がそこから出て来た場所、老父の道平やその身の上に降りて来た運命のまゝに依然として百姓仕事に甘んじている兄弟達のことを考へた。単に好人物といふより他はないその手の皺の間に土の浸みこんだ日焼けのした兄弟達は、誰から云ひ聞かされたわけでもないのに自分に与へられた運命の限度を知つて日々を落ちついて暮しているあの楽天的な人達であつた。彼等は今房一の成功を恐らく当人以上に悦んでいた。彼等にとつては房一はその唯一の代表者であつた。誰でも世間的な野心は持つているものである。そのないやうに見える人達にあつても、それは眠らされて見えがたくなつているか又は何らかの形に変形されているものである。そして、この世間的な野心といふものも、実は生の根源力にほかならない。彼等のあきらめていたもの、若しくは自然にあきらめたと同じ結果になつたこの野心を房一の中に見た。それは房一のものでもあるが、同時に彼等のものだつた。今彼等は彼等自身の全部の希望をこめて、懸命に控目に房一を支持しようとしていた。その単純な幸福さうな輝きが房一の心を捕へた。
「どうでせう。いつそあの障子も脇戸もとり払つて、曇り硝子に高間医院といふ字を抜きましてね、厚い二枚戸でも入れたら――」
「ふうん、それもよからう」
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