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    道平は房一の後についてこの何もない座敷に入つて来たが、やはりあの子供じみたもの珍しさの色は消えなかつた。房一のすゝめるまゝに今度も腰を下さうとして、ちよつと尻はしよりに手をかけたが、そのまゝ止めて、ごく目立たない仕草で真新しい畳の上を避けながら、彼には坐り心地のいゝと見えた縁側で胡坐あぐらをかいた。

    このあいと云ふ名の夫人は一度房一にお酌をすると、すぐ呑み乾されるのを待つやうに銚子を両手で抱へて持つていた。その様子は、何となく一方を向いたらそれしかできないやうな或る単純な性質を現していた。容貌から云つても、彼女は主人の相沢とは正反対であつた。肩が張り、腕も太く、顔も四角だつた。だが、そのごつごつした外形を蔽ふ何かしら間の抜けた感じが彼女の印象を一種親しみ易いものにしていた。はじめ、房一が玄関を入つたときもさうだつたが、今も彼女は一言も口を利かなかつた。その代りにすこぶる叮重なお辞儀をしただけである。

    と、盛子が傍から又さつきのをかしさを思ひ出したらしく、そつと注意した。

    今や事情は一変してしまつた。かつて御ぎよし易い息子だつた練吉は、正文の常識では計りきれないやうな矛盾、我儘を次々とひき起して、何とかして押へようとかゝつている正文は殆ど息子の意のまゝになつているのだつた。

    間もなく房一が帰つて来たらしい。

    「おい、ビールをくれ」と、しやがれた低い声で云ふと、土間の安テーブルの前に腰を下した。

    「まさか!」

    「いや、あの晩の、ほんの三二日前です」

    「私もこれで元は法律書生でしてね。司法官か弁護士試験でも受けるつもりで、神田の私立大学に通つていたもんです」

    誰か遅れて来た者があつて、対岸のよい釣場に早く行かうとして腰まで水のとゞく急な流れを渡渉とせふしながら、危く水中に倒れさうになつてゆつくりした滑稽な身振りでもつて片手に竿を片手に追鮎箱を高く差し上げる、そんな様子を近々と認めても、他の者はほんの無関心な一瞥を投げるだけで、微笑すら現すことなく、すぐ又自分の竿の先に、水面に、追鮎の溌剌はつらつとした又しなやかな腹の捻ひねりやうにこらすのだつた。誰かが獲物を掛けたらしく、中腰になつて、大きく撓しなつたまゝで力強く顫へている竿を両手でゆるやかに引よせにかゝると、彼等は何かの気配でそれと悟るのか、いつせいに釣り手の方をふりむく。釣り手の及び腰の工合や、慌てて手網を探る恰好などから、彼等は獲物の大きさをおよそ知ることができる。一瞬羨しげな表情が彼等の上に共通して現れる。すると、彼等のうちの一人の竿が、突然強い引きを伝へて、それはググ……と快い持続的な引きに移る。つい先刻まで羨望の色を浮かべていたその顔は、今や恐しく愉快な緊張のために何だか調子外れな表情になつて、汗がその額を滑り落ちている。他の者は、自分の竿にも同じことがすぐさま起りさうな気がするために、熱心に前方を見まもりはじめる。今釣り上げたばかりの者がゆるゆると次の支度にかゝりながら、不漁の連中を眺めてやつているのに、後者は明かにそれと知つていて見向きもしない。急に日の暑さが感じられる。額から首筋にかけて汗のふき出るのがはつきりと判つて、それは拭ふのも忌々いまいましい位だ。獲物がばつたりと止まつて、誰の竿ももう大分永い間空しく動いている。彼等の間では、獲物から惹き起される興奮が言葉のやうな働きをしている。今はその興奮がどこにも現れないので、彼等はおたがひに一種の沈黙が皆を支配しているのを感ずる。

    房一は苦が笑ひをした。

    「なんだ、さつぱり判らんぞう」

    「まあ、のみなさい」

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