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    「おとうちやん、どこへ行くの」

    さう云ひながら、盛子はゆつくりと喰べていた物がまだ口の中に残つているような無邪気な顔をした。

    その時ふいに、相沢の濁み声が聞えて来た。唇はうごいたが、眼玉があんまりさつきのまゝだつたので、その声はどこかよその方から、相沢の人並以上にぴんと張つた耳のうしろあたりから響いて来たやうに思はれた。

    道平が口をうごかせるまでには随分手まどつた。

    だが、今、房一は向ふから彼を認め、挨拶しようとしているのだつた。徳次は瞬間眼をそむけたが、又慌ててふり向いた。そして、その時川向ふでは房一が急いで自転車から降り立ち、口に手をあてて呼ぶのを見た。瀬音のために何だかよく聞えなかつた。だが、その姿は紛れもない房一、今までもう身分がちがふのだから仕方がないと半ばあきらめながら半ば怒りを感じていた一方、どこかに忘れられず残つていた幼友達の温味、――まさにそれだつた。

    今泉は一寸いやな顔になりかけたが、

    富田はすぐ又自分の方に話をひきとつた。

    胡坐をかいた道平は今膝小僧までまる出しにしていた。それも日に焦げている。

    「それがね、どうも本妻と妾を二人いつしよだといふ話だが、――なにしろ荒いのでね、二人ともぐうの音も出ないで温和おとなしくしとるらしい。――うん、さうだ。こないだ店へ買物に来た在ざいの者が話して行つたが、その家の前を通るとね、どうも女の泣声らしいものが聞える。それもただの泣き声ぢやない、ヒイヒイいふ、まあ恐いもの見たさでそつとのぞきながら通ると、多分妾の方があんまり痛められるんで逃げ出さうとでもしたらしい、それで片足土間に降りて片手を畳の上についたところを小柄こづかみたいなもので、何のことはない手の甲からズカツと畳まで刺しつけて動けんやうにした。だもんで、女の方はどうにもならんのだね、そこへしやがみこんだまゝヒイツヒイツて泣いとつた。見た男は足がふるへたつていふが、それあ誰でもふるへるだらう」

    感心したやうに呟くと、房一はくるりと向ふむきになつて歩き出した。

    徳次は指で真似をした。

    房一は立ち上つた。すると、着古しのワイシャツから下はズボンなしの毛むじやらな肥つた円つこい肉のついた脚がによつきりと出た。さつき河の中に入つたときに、ズボン下を脱いでしまつたのだ。

    八月末の思ひがけない冷気の後で又暑さがぶり返し、それは永くつゞいて、もうがまんがならないと云ふ頃に一寸色目をつかつた風に凌しのぎ易くなつたが、それも一日か二日で又もやぶり返し、今度は前ほどではないにしても緩漫に、のろのろと、いつまでも同じやうな暑さの日がつゞいて、九月に入り、九月の半ば過ぎてもまだちつとも初秋らしい気配は見えなかつた。あの夏も頂点を過ぎたのだと思はせたやうな草木の黒つぽさも何かの間違ひ恐らく人間の希望的観測といふやつだつたのだらう、その黒い沈んだ色さへ不機嫌さうにいよいよ黒つぽく見えた。

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