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が、一隊がふたゝび町中にさしかゝつて来ると、汗と埃でよごれ、ゆるんだ表情の彼等に見られるありありとした疲労は、待ちうけていた見物人達にたちまち同情と心配をひき起した。今や、この一隊は紙衣の神官でもなければ行列でもなく、見物人達の良人をつとであり、父親であり、主人であつた。草履の代りに下駄が、下駄の代りに草履がはき代へさせられ、手拭を出し、熱い番茶を持つて来、中には自宅の縁側に悠々と一休みして行く者さへあつた。
たしかに、一年余りといふ年月は経過した。それは暦の上でもはつきり現れているし、房一の身辺でも紛まがふことなく通過した。たしかにいろんなことが、予期したことも予期しないことも起つた。それにもかゝはらず、そこには何か了解しがたいものがあり、一口に一年といつてしまふにはあまりにはみ出たものがうようよして感じられるのであつた。これにくらべれば、彼が開業のはじめに空想したさまざまのことは、あの医師高間房一としてこの町にしつかりと根を生やすといふことは、どんなに小さくどんなに単純なものだつたらう。いや、彼の空想は着々として実現していた。何故なら、どこにも医師高間房一としての失敗は認められなかつたから。それでもなほ、彼の前もつて考へたことは、起つたことにくらべればとるにも足りないものだつた、といふ感じを抱かざるを得なかつた。そこには何か大きなものが、大きくつて親しい、落ちついたものが現れているやうに思はれた。
大した川でもないのにこんな風に所々でいろんな名があるのは、もとより必要があつて生じたのであらうが、一面に於てはそれぞれの水域に住む人達の生活がどんなに川と密接に結びついているものかを語り、同時に、吾々が自分の子供に思ひ思ひの愛称をつけるやうに、それぞれの呼び方の中に彼等の川に対する愛情を示していると考へられる。で若し誰か川好きな男、たとへば徳次などに向つてこの川をつまらぬとでも云はうものなら大変である。
風はすつかり途絶えていた。
半之丞の話はそれだけです。しかしわたしは昨日きのうの午後、わたしの宿の主人や「な」の字さんと狭苦しい町を散歩する次手ついでに半之丞の話をしましたから、そのことをちょっとつけ加えましょう。もっともこの話に興味を持っていたのはわたしよりもむしろ「な」の字さんです。「な」の字さんはカメラをぶら下げたまま、老眼鏡ろうがんきょうをかけた宿の主人に熱心にこんなことを尋たずねていました。
「いや、なに」
だが、あの感慨は、深まりかけていきなり出鼻を折られた感慨は房一の中に何かしら尾を引いて残つていた。それは人間の身体が静かになり温あたたまつて来ると動き出す虫のやうに、どつかでもぞもぞしはじめ、ひとりでに歩き出し、遂ひにあたりにひろがつて、知らぬまに房一の身心をすつぽりと包んでしまつた。――開業してから一年あまりになる!その一年目はもうとつくに、二月近くも前にいつとなく、こつそり過ぎてしまつた。それは、あの季節の曖昧な変化のためだつたらうか。それなら、房一はそのことを今日盛子に云はれるまではすつかり度忘れしていたのだらうか。いや、決して!彼ははつきり覚えている。去年の九月にあすこの中庭の土塀のわきで無花果いちじゆくが色づいていた、それは今年も同じやうに色づいた。ちがつたのは、今年はうんと実がなつて盛子と二人では喰べきれなかつただけである。あのとき老父の道平と二人で坐つた座敷はまだがらんとして落ちつきを欠いていたが、今は別に家具がふえたわけでもないのに、何となくしつとりし、人の匂ひが浸みこみ、あのときのやうに乾いていないだけである。それは何も変つていないことである。同時に大した変り方である!吾々は暦の上で立春だの立秋だのいふ区別をして、それを紙片にはつきり判るやうに印刷している。だが一体、春はいつやつて来るのだらう、冬はいつやつて来るのだらう。温かつたり寒かつたり、暑かつたり涼しかつたり、それはとりとめもない曖昧のうちに何かしらどんどんやつて来、どんどん去つて行くのである。吾々は紙に印刷した日附だの文字だのでさういふものを捉へようとするが、捉つかまつた試しはめつたにない。それなら、房一が盛子の何気ない一言ですつかり感動してしまつたのはどうしてだらう?
さうかと思ふと、朝早くから農婦たちが背中に子供を負ぶつてやつて来る。それが唯一の目的のときには恐しく早朝に出かけて来るのであつた。さういふ場合にかぎつて、房一は彼女等の背中に、熱ばんだ小さな顔を上向きにして喘あへぐやうな呼吸をしている幼児を見、その手遅れであることを認めるのであつた。
「はゝゝ、でもカワラケにはちがひない、それがかうひよつとね」
「いや、そこまで確かなことにはしませんでしたが」
相手が急に三人にふえたためか、柵の中の長身な男は一層興奮した。
私は時間を忘れているが、ひょッとすると、一二分、又、一二分というように、ねむっているのかも知れない。頭のシンが疲れている時には、頭をシャボンの泡だらけにして、湯につかりながら、後頭部からコメカミへかけて十分も十五分も静かにもむこともある。両耳を抑えて、湯の中へ頭をもぐしこんでシャボンを落して、又、湯の温度に同化してしまう。
根津が箱根における化物話は、それからそれへと伝わった。本人も自慢らしく吹聴していたので、友達らは皆その話を知っていた。
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