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    「まあ、生れ故郷ですから」

    「ふむ、ふむ」

    「高間さん、ひとつ何とかして引上げさせて下さい。このまゝでは――」

    また夕方、溪ぎわへ出ていた人があたりの暗くなったのに驚いてその門へ引返して来ようとするとき、ふと眼の前に――その牢門のなかに――楽しく電燈がともり、濛々もうもうと立ち罩こめた湯気のなかに、賑やかに男や女の肢体が浮動しているのを見る。そんなとき人は、今まで自然のなかで忘れ去っていた人間仲間の楽しさを切なく胸に染めるのである。そしてそんなこともこのアーチ形の牢門のさせるわざなのであった。

    「挨拶みたやうなことはもうしたかの」

    今日見るその顔は、色こそ黒かつたが、地蔵眉の、眼もそれに釣り合つて細い糸を引いたやうにやさしかつた。だが、その声には何かきつぱりした、率直さが感じられた。

    「や、失礼、おさきに」

    「ほう、さうか。毎年あるのかね。そいぢや、これから度々見られるわけだな」

    房一は生返事をしてからふり向き、うなづいて見せた。彼はよく聞いてはいなかつた。

    「お髯がなくなりましたわ」

    そんな具合だから空室になつた分家の方も閉めて置くより他はなかつた。鍵屋の方はまだしも湿めつぽい匂ひがあるが、この分家は人気ひとけが去るのといつしよに家そのものの気さへ抜けてしまつて、乾いて、たゞ昔の恰好のまゝで立つているだけであつた。まさか、よそから流れこんで来た八百屋や指物師などに貸すわけにはいかない。ところが、全く打つてつけの借り手ができた。それは「医師高間房一」だつた。医者に貸すのだつたら、別に家の品を落すことはないわけだ。

    感心したやうに呟くと、房一はくるりと向ふむきになつて歩き出した。

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